赤須賀神明社

1、赤須賀神明社の始まり 

赤須賀は室町時代永禄四年に三河国市場町村(愛知県額田郡幸田町)から渡来した市場茂右衛門秀高とその家臣(関村・大島.・安田・大橋・大河内・加藤・星野・水谷・鬼頭)によって開発された漁師町で、永禄六年九月十一日に三河祈願所の神明社御霊代を移遷奉祭したのが赤須賀神明社である。

その後、正保二年桑名藩主松平定綱の命にて赤須賀新田が開発され、猟師町赤須賀,俗に城東と呼ばれるようになった。

明治期の河川改修後に三四番組は南築地へ、五六番組は北築地へ移住し大正十二年三月三十一日に桑名町と合併して以後は開勢町・市場町・蛭子町・辨天町・宮本町・港町の各町名となった。

2、赤須賀神明社に祀ってある神様

正面中央に祀ってあるのが「お伊勢さん」の天照皇大御神です。その右側には風水害の守り神として、一目蓮神社が祀ってありましす。ほかに境内には稲荷神社、恵比須社があります。江戸時代の中頃から厳島神社や津島神社など6つの神様が次々と迎えられ、天照皇大御神と一緒に祀ってあります。

3.赤須賀神明社と七里の渡し

江戸時代になると東海道が整備され、桑名から宮(熱田)までは海上を船で渡ることとなり、七里の渡しと呼ばれました。江戸から「お伊勢まいり」に向かう人たちは桑名の七里の渡し場から伊勢の国へ入ることとなります。赤須賀神明社は七里の渡しに一番近い大きな神明社で、海上安全の守り神として崇められました。参勤交代で江戸へ向かう大名行列は、桑名へ着くとただちに赤須賀神明社へ参進し海上安全の祈願をしました。殿様たちの乗る御座船を操縦するのは、その大多数が赤須賀の水主たちでありました。

4.生けどられた雷さま

昔から桑名の町に、雷様がきらっているところがあります。そこは赤須賀という漁師の町です。ある日のお昼頃、おばばが飯をたべているとき、にわかに空がかきくもり、ピカピカゴロゴロと雷様がやってきました。黒い雲に乗った雷様は久しぶりにでむいてきたので、大暴れの様子でピカピカゴロゴロと調子に乗っていました。ところが、乗る雲をしっかり作ってなかってので、あまり暴れまわったひょうしに、雲のうすいところがやぶれてしまって、雷様はまっさかさまに落っこちてしまいました。ピカッドスン。おばばの家の井戸の中へ。おばばは庭のあたりであまりおおきな音がするので、とうとう庭に雷様が落ちてしまったんじゃなと思って、フトンをかぶってこわがっていました。しばらくそうしていると庭のほうから「助けてくれ。たすけてくれ。」という叫び声がするではありませんか、おばばはおそるおそるフトンから出て耳をほじっくて聞いているとやはり「助けてくれ。助けてくれ」おばばはこの声は何だろうと、庭へ出ていきましたが、庭には誰もいる気配がありません。あちこちをさがしましたが、どこにも見つかりません。「助けてくれ。助けてくれ。」突然にまた声がします。よく声をそばだてて聞いてみると、庭の井戸の中から聞こえるようです。おばばは井戸の中をのぞきこんでみました。するとそのなかには、真っ赤な体に虎の皮のふんどしをつけた雷様が頭に大きなこぶを作って今にも泣きだしそうな声で助けをもとめていました。「これからは、この土地には決して落ちませんからどうかこの井戸から出して下され。」「何をいうとるか、人の家をなんどもやいてるくせして。」おばばは井戸にふたをして、閉じこめてしまいました。「もう決してここへは落ちませんからどうかふたを開けて、助けて下され。」「そんならふたをあけてやるから何かのこしていけ。」「今はなにもたいしたものを持っていないが、今朝つくったばかりのヘソの佃煮ならおいていこう。」雷さまはヘソの佃煮をおばばにわたしました。おばばはそれを一つつまんで口に入れると、今まで味わったことのないようなおいしさに驚き「こりゃ雷公よ、この佃煮はなななかうまい。わたしにこのつくり方を教えてくれ。そうすりゃ、すぐに井戸から出してやる。」雷様はしかたなく佃煮の作り方ををおばばに教えました。それでおばばは井戸から雷を出してやり、空に帰してやりました。それからというもの、おばばはこの佃煮を作って市場で売るようになり、これがたいそうおいしいので大繁盛しました。しかし、おばばに材料のヘソが手に入るわけはありません。おばばはしかたなくヘソによくにた蛤の身を佃煮にして売りました。これが有名な桑名の”しぐれ”のはじまりだと言われています。

 

食堂はまかぜのメニュー

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